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きのうの夜H屋でたべた唐揚げ定食が気になっている。
鶏肉と小麦粉を混ぜたような唐揚げで、鶏肉の感じはすくない。あまりしない。水っぽい。だいじょうぶかいなと思った。
チェーン店のH屋は入りやすくてよく行くんだけど、唐揚げ定食については当たり外れがある。立川のような大きい街の大きな店でははずれた経験はないが、ぼくの住んでいるような小さな街の店では当たり外れがある。
それはわかっていたが、店が近づくにつれてみそラーメンと餃子のセットのイメージが唐揚げのイメージに変わっていった。口のなかで唐揚げのカサッとした感じがするようだ。マヨネーズをしっかりとつけて唐揚げを食べよう。
しかしだめだった。ざんねんだ。もうあの店では唐揚げ定食はたのまないようにしよう。
阿佐ヶ谷まで観に行ったのはこれを観れば、黒木和雄監督の劇映画は全部観たことになるなという気持ちからだった。ビデオでも観たことはなかった。まったくの初見だった。
この映画が黒木和雄の劇映画のデビュー作のはずだ。
驚いたのはそのショットの斬新なこと。新鮮だ。観る位置、角度がよく選ばれていて、ハッとさせる。このことだけでも観に行ってよかった。映像のこのよさは想像を超えていて、晩年の作品群にはこの新鮮さ、斬新さはなかったと思う。
南の生きものであるナガサキアゲハという蝶ちょが北海道である少年によってつかまった。このナガサキアゲハはどうやってこんな北までやってきたのかという物語でもある。
『2001年宇宙の旅』では「長い板」が突然、奇跡的に画面にあらわれるのだが、『とべない沈黙』ではナガサキアゲハの幼虫が突然現れるのだ。毛虫系統が苦手の人は神秘性はもてないだろう。
俳優陣は多彩。加賀まりこ、蜷川幸雄(結構いい)、戸浦六宏(なつかしい。やっぱりセリフのキレのいい役者だった)、渡辺文雄(寺山修司をおもいだした)、長門裕之、小松方正(大過剰)、千田是也や東野英治郎といったところもでる。
最初のころはこれはデビュー作にして黒木和雄の代表作の一つになるのかと思えた。
1960年代の日本人の身体、風俗、風景が生々しくわかったりもするのだ。が、途中から感嘆の気持ちがだんだんうすれていった。
つめこみすぎだ。小松方正が扮する戦争中、兵隊に行っていた男が現地の愛人を、撤退するときだろう、現地の愛人とその家族を殺してしまい、あげくの果て、その愛人を食人してしまったらしいということが、短い映像の間に描かれるのだが、墓場で加賀まりことナニしているときに、そういうことを叫ぶのだが、そのもと兵隊の小松方正が大過剰の演技で、観ていて引けるくらいだ。やりすぎだ。
1966年に作られた時代の映画でもあるわけで、でてくる男たちはやたら悩むのだ。ATG映画でもある。かつては難解なものは分からねばならぬという時代の掟のようなものがあったが、今はもうないわけで、もうちょっとすっきりしたらどうだいと2014年に観たぼくは思ってしまうのだ。おそらくその日に観たすべての観客がそう思っただろう。
ニュース映画をはさんだり、じっさいのデモの情景に長門裕之といった俳優を飛びこませたり、殺人事件もベッドシーンもたっぷりあったりで、眼を楽しませてくれるけれど、どういっていいかわからぬ気持ちももつのだ。
しかしあのショットはよかったな。おおくある斬新でみずみずしいショット。それはよかった。それだけでも観に行ってよかったと値打ちがあったと誇張なくそうおもう。
見ごたえのある映画だった。ストレートな映画。こういうタイプの映画はひさしぶりに観る。
時代は1841年。南北戦争の始まる前。ニューヨークに住む自由黒人のノーサップはバイオリンの演奏家として働いていたが、ワシントンでいい仕事があるという誘いにのる。仕事を持ってきたのは二人の白人男だった。この男たちは黒人を誘拐しては奴隷として売りとばす奴隷商人の一味だった。ノーサップはほかの黒人たちとともに南部のルイジアナに売られてしまう。奴隷となったのだ。
自由黒人という名称からして変であり、ふつうに働いていた、家も家族もある男が拉致され、売られ、奴隷とされ、自由を失うのがなんとも妙であり、おそろしくもある。自由黒人ということそのものが例外的な、不安定な立場なのだ。
奴隷制度の凄まじさ、ひどさ、過酷さが克明でリアルな映像で描かれる。奴隷も人間を奴隷として扱う側も堕落する。いくつかの映画評で取り上げられているノーサップが首つりをされる長いシーンはやはりすごい。けっきょく命は助かりはするのだが、このシーンで奴隷制度といったものがわかってしまうのだ。
奴隷たちは仲間が首つりされていても誰もたすけない。助ければただではすなまいのだ。処刑しようとしていた白人たちがその場からいなくなっても誰もたすけない。首つりされているままのノーサップのそばでこどもたちがいつもとおなじように遊んでいる。まるでいつもの「平穏な日常」がつづいているようなのだ。ノーサップはひとり必死でつま先を伸ばし続けかろうじて足が地面についている。ロープは首にかかったままだ。その場面が静かに長くつづく。すごいシーンだ。
おそらくこういうもんだったのだろうなと思う。こういう実態だったろうし、こういうことは起こったのだろうし、奴隷にされた黒人たちの風体、様子はもっと惨めなものだったのだろうと思う。
ソロモン・ノーサップは12年間奴隷として働かされ、ボロボロの身体になるが、一計を案じ、ようやく出会った奴隷制度に疑問をもつ白人にも助けられ、なんとか自由の身になる。しかしおなじように農場で働かされていた黒人たちはそのままだ。農場主の異常な愛にふりまわされ、それを嫉妬する妻には虐げられ、耐えきれずノーサップに殺してくれと頼む若い黒人女パッツィーもそのままだ。農場から去るノーサップをみつめながらじっと立ちつくすパッツィー。ノーサップだけが助かったのだ。このへんは正直に描いている。
すくなからぬ観客たちが、じゃあ今の日本はどうなんだろうと考えさせられただろう。おなじではない。しかし似ているところはある。このことが重い。
監督はスティーヴ・マックィーンというイギリスの黒人。スティーヴ・マックィーンという名は代替わりしたのだ。
ローリング・ストーンズのライブコンサート評を読みながら、おれも行きたかったなと思う。
この何カ月かローリング・ストーンズのライブを、2013年のライブをユーチューブで観ていて、つくづくストーンズってすごいなと思っていたからだ。
80年代や90年代よりも2013年のライブがいいのだ。枯れたというか、抜けたというか、あれでミック・ジャガーは60歳台後半くらいだからね。すごい。よっぽどトレーニングしてるんだろう。
ミック・ジャガーには商売人という感じがあって、なんとなく敬遠していたけれど、それも気にならなくなった。
とくにリサ・フィッシャーとミック・ジャガーがボーカルに立つ「ギミー・シェルター」がいいのだ。そしてこのライブにかんしては90年代のライブがいいのだ。
という感じではあるのだが、ストーンズのライブがあるということは知ってはいたのだが、しかし芝居の3カ月先ぐらいになってしまうチケットを買うときでも、確実に休みになるだろう日を選ぶのに結構あたまを悩ませるし、買ってしまった後でも、急な仕事で出勤になってしまうと、このチケットはパーになってしまうな、誰にあげればいいんだろうと考えて、しばらくは悩ましい思いになる。というわけでこのストーンズのライブに行くことは最初からあきらめていた。
しかし今度ストーンズが来るときはぜひ聴きに行きたいもんだと思う。なんとかチケットを買えるかもしれないし、行けなくなってもローリング・ストーンズのチケットならもらいたい人間をさがすにも苦労しないだろう。
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