「全東洋街道」読み終わる
藤原新也の『全東洋街道』読み終わった。最後のところは凄かった。吉本隆明が「思想者」とするなら、藤原新也は「体験者」とでもいうべき人で、80年代以降の状況の具体的な読みは吉本隆明を超えているんじゃないかと思った。すくなくとも藤原新也のいっていることは「分かる」のだ。誰でももっている日本人の言葉で思い、考えられているからだ。答えに同意するかどうかは別にして、よく「分かる」のだ。
吉本隆明はむずかしい。吉本隆明のいっている「超都市」というのはぼくは頭の先でしかついていけない。これは専門的に西洋の哲学、思想を勉強した人以外はそうだろう。
このむずかしさに引っかかるようになった。「知」っていうのは本来、心と頭と体で生みだすものだろう。頭だけで生みだされるものにそう大した意味はないんじゃないかと思うのだ。それを手に入れて、じぶんの生活、じぶんの生き方、じぶんの歩みに活かすことができるものなのだろうか。
80年代後半か、ぼくが勤めている所に、佐藤くんという絵描きのひとがアルバイトにやってきていた。佐藤くんが短いあいだのバイトをやめる日、仕事が終わって帰る時に駅に佐藤くんがいた。いろんな荷物を持っている。これから中国に行くのだと言った。ぼくは佐藤くんに吉本隆明って知ってるかといい、佐藤くんはぼくに藤原新也って知っているかと聞いた。ぼくは知らないと答えた。佐藤くんは吉本隆明の名前だけは知っていた。若い世代にとって藤原新也というのはとても切実な存在だったのだといまはわかる。写真もやっていたらしくその写真をぼくに買ってくれと佐藤くんは言う。ぼくはちょっと迷いながらも断ってしまった。駅でそんなことをぽつぽつと話した。佐藤くんとはそれっきりだ。
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