高村光太郎の「智恵子抄」
よい詩集でありました。
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よい詩集でありました。
藤原新也の『全東洋街道』読み終わった。最後のところは凄かった。吉本隆明が「思想者」とするなら、藤原新也は「体験者」とでもいうべき人で、80年代以降の状況の具体的な読みは吉本隆明を超えているんじゃないかと思った。すくなくとも藤原新也のいっていることは「分かる」のだ。誰でももっている日本人の言葉で思い、考えられているからだ。答えに同意するかどうかは別にして、よく「分かる」のだ。
吉本隆明はむずかしい。吉本隆明のいっている「超都市」というのはぼくは頭の先でしかついていけない。これは専門的に西洋の哲学、思想を勉強した人以外はそうだろう。
このむずかしさに引っかかるようになった。「知」っていうのは本来、心と頭と体で生みだすものだろう。頭だけで生みだされるものにそう大した意味はないんじゃないかと思うのだ。それを手に入れて、じぶんの生活、じぶんの生き方、じぶんの歩みに活かすことができるものなのだろうか。
80年代後半か、ぼくが勤めている所に、佐藤くんという絵描きのひとがアルバイトにやってきていた。佐藤くんが短いあいだのバイトをやめる日、仕事が終わって帰る時に駅に佐藤くんがいた。いろんな荷物を持っている。これから中国に行くのだと言った。ぼくは佐藤くんに吉本隆明って知ってるかといい、佐藤くんはぼくに藤原新也って知っているかと聞いた。ぼくは知らないと答えた。佐藤くんは吉本隆明の名前だけは知っていた。若い世代にとって藤原新也というのはとても切実な存在だったのだといまはわかる。写真もやっていたらしくその写真をぼくに買ってくれと佐藤くんは言う。ぼくはちょっと迷いながらも断ってしまった。駅でそんなことをぽつぽつと話した。佐藤くんとはそれっきりだ。
地元のお祭りというか、地元の商店街、学校、市などが協力してやっている青空感謝市。大学通りの路ぞいにずらっと店が並ぶ。この日は天気のいい日だった。
ヴィスコンティの『山猫』を観た。充実した作品だった。
名画のなかの名画とイメージしていたフェリーニの『甘い生活』が生命力をなくしていると感じたあとだったので、うしれい気持ちだ。
イタリアの統一をめぐる戦争の時代を背景に、シチリアの大貴族サリーナ公爵(バート・ランカスター)の社会が変わろうとするときの葛藤を内的な軸とした映画だ。
いちばん強い印象をあたえるのは貴族たちの夜会のシーンだ。これは貴族でもあったヴィスコンティがこだわった場面だろう。衣装や食器、家の装飾、壁にかかっている絵など、おそらく徹底的に調べてできるかぎり同じものをそろえようとしたのだろう。踊りもそうだ。こういうふうに踊っていたのだろうと思う。
戦争の時代を扱った大河映画ともいえるがヴィスコンティがなによりも撮りたいと心の底で思っていたのはこの大舞踏会の場面じゃなかったのかと思う。圧巻の場面だ。
古い過去の世代と自覚するサリーナ公爵と対照的に描かれるのが新しい時代を泳ごうとする公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)。そして貴族になりたがっている成り金の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)だ。
はっきりいってバート・ランカスターの演技もアラン・ドロンやクラウディア・カルディナーレの存在感もたいしたものではない。たいしたものなのはヴィスコンティの撮る場面場面の構図だ。これは何度もうなった。ヴィスコンティの執着と力を観た。大貴族サリーナ公爵の滅びいくものとしての立ち姿はヴィスコンティの立ち姿でもあるだろう。
ヴィスコンティは『地獄に堕ちた勇者ども』とか思いだすが、代表作はこれかもしれない。ヴィスコンティの充実している一作だ。
『ひょうたん』48号ができました。ぼくは「夏の雲」という詩を書いています。
『ひょうたん』48号に書いているのは、
水野るり子、君野隆久、森ミキエ、相沢育男、小原宏延、岡島弘子、布村浩一、絹川早苗、後藤順、中口秀樹、村野美優、阿蘇豊、柏木義高、水嶋きょうこ、大園由美子です。
発行所はひょうたん倶楽部。編集/制作は相沢育男。装画は相沢育男+律子。定価400円。
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