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2012年3月13日 (火)

「幕末太陽傳」を観に行く

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  デジタル修復版の『幕末太陽傳』を観に行った。監督は川島雄三。日活映画。1957年の作品。

 不思議な映画だった。あるエネルギーが時は幕末、場所は東海道品川の遊郭という設定を借りて、跳ねまわり、飛びまわり、明るい方へ行ったり、暗い方へと行ったりしながら、その正体をなかなか明かさないというふうだ。

 品川遊郭・相模屋で派手に飲み食いしたあげく、金はないと開き直った佐平次(フランキー堺)は、相模屋の雑用係をしながら働いて返すことになる。居残り佐平次と名乗ってなんでもやる。佐平次、遊女屋の仕事が合っているみたいで水を得た魚ようによく働く。もちあがった問題、難問、遊女同士のケンカなんぞもなんなくさばいてみせる。やたらと要領のいい男だが病気持ちの風でもある。

 これはどういう映画なんだろう。このエネルギーをどう名付ければいいんだろうと考えた。相模屋を宿にしている高杉晋作(石原裕次郎)らの志士が、開国をせまる外国人たちへの反感から彼らの住む異人館への焼き討ちを計るところまで来て、これは「時代の映画」だろうと思った。そう考えないと焼き討ちをかけた異人館の燃え上る場面のアナーキーなエネルギーの輝きは理解できない。これは当時の観客でなければわからない「場面」でもあると感じる。

 もうひとつ。バイタリティに満ち満ちた、毒々しいほど要領のいい佐平次が不治の病である肺を病んでいるという設定によって、この映画は屈折した顔をもつことになっている。主人公の佐平次の複雑さによって『幕末太陽傳』は普遍的な側面をもつ映画になったといってもいい。

 そしてぼくらはもうこの映画の監督である川島雄三が45歳の若さで死んでしまったことを観る前から知ってしまっているわけだから、当然のように川島雄三が佐平次の病に自らの病を投影させているのだと思うわけだ。その通りだろう。

 1957年、昭和32年に作られたこの映画はいまも観る値打ちをもっている映画だ。

 

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