夜の公園
夜。ちかくの公園まで歩いてみる。
小さな雨が降っている。
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夜。ちかくの公園まで歩いてみる。
小さな雨が降っている。
たばこをやめてだいたい一ヶ月になる。ある日吸っていたピアニッシモワンが店頭から消え、どこの店に行ってもない。
尋ねれば次の入荷の予定は一ヶ月後だという、だったらこの際やめてしまおうということで、やめた。禁断症状というのはまったくない。タールが1ミリグラム、ニコチンが0.1ミリグラムの軽いたばこだったからだろうと思う。害というほどのことはなかったんだなとやめてから気づいたが、まあお金もかかることだし、このままやめてしまおうと思っている。
もし<体にわるいものを吸っている>という意識がなく、またそういう情報がばらまかれないとしたら、タールが1ミリグラムでニコチンが0.1ミリグラムほどのたばこなら害はないと思う。しかしそういう情報はばらまかれつづけるだろうから、どうしても気にしてしまうだろうから、やめておいたほうが無難とはいえる。
東京国立博物館でやっている「特別展 写楽」を観にいったとき買ったもの。
写楽の正式の名は東洲斎写楽。浮世絵の名は「市川鰕蔵の竹村定之進」と付けられている。市川鰕蔵は「いちかわえびぞう」と読むんだと思う。作られたのは寛政6年(1794)。
東京に住んでいたわけだからその後の生活が一変するような被害ではなかったわけだけれど、東日本大震災というのは大きな出来事だったのだなとこのごろあらためて思う。
というのは詩誌をもらって礼状を書くときにしらずしらず大震災のことにふれていたということがつづけてあって、そのとき自分のなかをみると無意識の層をもった大きな体験として、「東日本大震災」というものがあってしまっているのだと思った。
地震そのものが東京にきてからいちばん大きなものだったということがあるし、その後も3月11日ほどのことはないが地震がよくある。そして以前よりも地震の揺れというものに対してギョッとする。
東北のほうの避難したままになっている被災にあった人たちのことをずっと報道で知りつづけていること、原発事故の影響の大きさ、原発事故が起きた場合のリスクの大きさに、これも報道で驚きつづけているということもある。
阪神・淡路大震災のときは、日本の社会はそれでも日常のなかに「阪神・淡路大震災」というものを飲みこんだけれども、今度はどうだろう。飲みこみきることはできずに日本人の体験した大きな事として、「東日本大震災」というのはじんわりと無意識的にこれからのぼくたちの社会の方向に影響をあたえるんじゃないかと思う。
晴れ。
気持ちのいい空だった。
曇り。
道が濡れている。雨が降ったようだ。
今日は資源ごみの日。新聞と雑誌を出す。
曇り。
今日は気温は低め。
東京国立博物館でやっている『特別展 写楽』を観に行った。
予想通りの人の多さで、「鑑賞列」の中にはいったり、列の外側から写楽の浮世絵を観たり、自分のペースで歩いたり、そのなかでの印象、目に残ったことということになるが、写楽の描いている絵の顔のデカさ、顔の表情、表情のやわらかさというものが残った。そしてこれは「絵」というよりは「浮世絵」と呼んだほうがいいものなのだろうと思った。
館の中での、絵を観るときの人の多さにはまいったが、でも大勢の人がいる所に出かけるのもいいものだと思った。上野駅から国立西洋美術館、国立科学博物館と通り過ぎて、「写楽展」をやっている東京国立博物館まで行くのだが、その間もあふれるほどの人がいて、道いっぱいに大勢の人と歩いていると気持ちがよかった。
曇り。
風の中にちいさな雨粒が混じっている。
新宿花園神社でやっている唐組の『ひやりん児(こ)』(作・演出 唐十郎)を観に行った。
楽しかった。まえ唐組の芝居を観に行ったのが、1年くらい前だから、このぐらいのペースがいいのかもしれない。
開場が6時半でその前にトイレに行っておこうと花園神社のトイレの戸を開けると唐十郎が立っていてびっくりした。唐十郎をあんなに近くでみるのはあれが最初で最後だろうなとちょっと感動した。やっぱりぼくにとって唐十郎というのは伝説的人物なんだなと思う。
唐十郎の芝居というのはすじ的にはわかったことがない。今度もなんとなくひっぱり込まれて感動させられたような感じだ。
舞台にリヤカー式の大きな水槽を引っぱって出てきた男がいる。尾加良(おから)という青年。豆腐を売っているのだ。水槽のなかには一個だけ豆腐が浮かんでいる。
唐十郎の芝居は「夢」を追いかけ、探しつづけているともとれる。その夢というのは<構造的な夢>で、もしつかまえることができたら、何かが、とても重要ななにかが一挙に解決するかもしれない。そんな宝石のような夢だ。その夢を追いかける主人公とサスペンス的に邪魔をする謎の男。立ちふさがる者。応援する者。理解する者。そんな連中が舞台を右と左に分かれ、入れ替わり、また入れ替わり、一斉に走り回る。そんな感じだ。
その夢のことを舞台を観ながらなんとなく思っていた。
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