中野真吾「もう一度『はみだしっ子』を読む」
短歌の雑誌『掌』(掌の会)の106号を読んでいたら、中野真吾という人が三原順の漫画について書いた「もう一度『はみだしっ子』を読む」が載っていて、意外な感じもあって最後まで読んでみた。
おどろくのは、漫画についてこんなにまじめな深い思いで読みこんでいく人がいるんだなということだ。
ぼくなんかは漫画というものに対してこういった読み方はしたことがないんじゃないかと思う。いま手元に置いている白土三平や水木しげるの漫画について、こういう読み方はしたことがない。つげ義春の漫画を読んだときも、こういう思考を深めていくような読み方はしなかった。林静一もそうだ。そういう読み方でいい漫画だったということがあるが。
中野真吾という人に、これを書かせたのは、ひとつには三原順という作家が特異な存在なためだろう。そして他の世代とは違った、中野真吾の世代の独特な漫画にたいする接近感というものがあるだろう。
「はみだしっ子」は読んだことはないが、三原順という名は知っていた。「エックス・デー」という漫画を探して読んだことがある。この漫画家が気にはなったが、読者にはならなかった。
中野真吾は「はみだしっ子」にでてくるグレアム、アンジー、サーニン、マックスという4人の(少年と少女なんだろうと思ったが、4人とも少年らしい)登場人物について、かれらの出会った物語にそって思考をめぐらす。中心にいるグレアムの行動と思考を追いかけ、4人の少年たちのそれぞれのつながりのことを考える。
ここにあるのは「心だけの世界」のように思う。今はぼくはこのことに親和感だけをもつわけにはいかない。でも「心だけの世界」をもっともリアルに感じていた時代はあった。中野真吾にとって「心だけの世界」をリアルに感じていた時代に出会ったものが「はみだしっ子」だったということなんだろうと思う。
「はみだしっ子」のストーリーを知りはじめて、これはたいへんな漫画なのかもしれないと思ったりする。
「心だけの世界」の住人であるグレアムたちにたいして、「心だけの世界」の外部に住む法の人フランクファーターが登場させられていることを知るときそう思う。
「心だけの世界」の住人たちがいちばん恐れる人間がフランクファーターだろう。「フランクファーターはいやだ!」というグレアムの叫びがよく響く。
心理と倫理のゲームのようにも思えるこのまだ読まない漫画のことを中野真吾は考えさせてくれた。もしかしてある場ではこういう形の漫画評論はよく書かれているのかもしれないが、中野真吾には「はみだしっ子」を読んだことの体験が強く保たれている。
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はじめまして。
「もう一度『はみだしっ子』を読む」読んでいただき、触れてもいただき、ありがとうございます。
布村さんのおっしゃるとおり、三原順も「はみだしっ子」も、そこにいまだにとらわれている僕たち(ネットを見ると、この謎から抜け出せないままの人たちがたくさんいると感じます)も含めて、かなり特異な存在なのかなと思います。
というか、漫画は「はみだしっ子」を生み出さずにいられなかったし、「はみだしっ子」は読み手を生み出さずにいられなかった、そして読み手はその謎を読み解くことを強いられている、かっこよく言ってしまえばそんな気がします。
ぜひ「はみだしっ子」を読んで、ご感想を聞かせていただければと思います。
投稿: 中野真吾 | 2011年5月27日 (金) 23時10分
中野さん
書き込みありがとう。
とてもいい批評を読ませてもらったと思っています。
昔『ガロ』なんかで漫画批評を読んだような記憶もあ
るんだけど、それはたぶん社会批評としての漫画批
評で、本格的なのは、漫画批評そのものというのは
中野さんのが初めてのような気がします。
三原順の存在をしったのは80年代の終わりだと思
います。何故か気づきませんでした。ちょっと怖い気
もするんですが、いつか読んでみようとも思います。
投稿: 布村 | 2011年5月28日 (土) 20時24分