小林秀雄「本居宣長(下)」を読み終わる
小林秀雄さいごの批評だが、いきおいがある。小林秀雄という批評家はこのいきおいを最後まで失わなかったわけだ。
読みにくい本だ。江戸時代の文がひんぱんに出てくる。こんなに読むのが難しい本をなぜ小林秀雄は書いたんだろうとふと思ったりした。
小林秀雄を読んできて得たことのひとつは意味を追いかけるのではなく、読むことが体験であるような読み方がいいのだということ。『本居宣長』でもそういう読み方をこころがけた。
小林秀雄の最大の魅力はなんといっても読んでいて、<おれはこうだな>と考えられること。それだからずっと小林秀雄を読んできたんだ。
小林秀雄の前、大きな影響を受けてきた吉本隆明はこういう読み方はできなかった。時代の影響ということがあるし、半分はじぶんの責任なんだろうが、書いてあることを受け入れるか、受け入れないかという読み方しかできなかった。
ようするにぼくは『本居宣長』を読みながら、本居宣長という人ではなく、小林秀雄という人を読んでいたといえる。小林秀雄の息づかいのようなものを最大の注意をもって読んでいたわけだ。
小林秀雄が強くこだわる、そして何かを託したい本居宣長という人には、何度かこの本を読み返すうちに、本居宣長その人に近づいていけるんだろうと思う。
ちかくの喫茶店で、じぶんの部屋で、電車の中で、正月田舎に向かう新幹線の中で、『本居宣長』を読んできた。詩を読むのに似た心の使い方があって、多くは読み進められない。しかし心が開かれる感じがあって、休みの日には必ず読んできた。小林秀雄の切迫した息づかいが、他のことでは得ることのできない、共振のようなものをぼくにもたらしていたからだと思う。
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