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2010年9月12日 (日)

「もしもし下北沢」から

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 毎日新聞に一週間に一回という形で連載されていたよしもとばななの小説『もしもし下北沢』が終わった。結局第1話から最後の49話まで全部読んでいた。

 ここ何年か、よく読んでいる作家といえば、よしもとばななと藤沢周平ということになる。

 藤沢周平はぼくたちの社会で特別な意味をもつことになった作家だといえる。ぼくたちの社会の窮屈さというのは前の、昔の社会の窮屈さとはちがうもの、かなり質のちがうものになったといえるからだ。どういう言い方をしていいのか分からないが、なかなか息の抜きにくい窮屈さなのだ。

 藤沢周平の描く作品はこの強いからみつくような窮屈さをもつ社会のなかで、滅多にない息を抜ける場を提供してくれるものなのだ。

 藤沢周平が実際どんな人だったか、どういうふうに他人と接する人だったか知りようもないけれど、藤沢周平の資質の核にあったのは「おとなしさ」、「内気さ」だったと思う。

 1997年、69歳で死ぬまで藤沢周平の人となりも変わっていったかもしれないが、資質の中心にあるものは最後までそのままだったと思う。そのまま自分のなかにおさめていたと思う。

 ぼくは藤沢周平の小説を読むときに物語をたどっていきながら、藤沢周平の資質の核からにじみ出るものに、そこから浮かびあがってきたものに触れるとき、藤沢周平のかたちに正対することになったとき、心の息がゆっくり洩れるような思いがする。しーんとして静かになる自分がいる。

 もう一人よく読んでいるよしもとばななは、資質の輪郭というものはよくつかめない。(それが不思議なような気がするが、小説と公式サイトの日記の両方を読んでいる影響があるかもしれない)。

 何にひかれているかといえば、「受けのやわらかさ」というものにひかれているのだと思う。それはよしもとばななの文章から、よしもとばななの向く方向からきている。よしもとばななの書く物語はこの風景の道を歩いていくというよりも、風景の上に昇っていくようだ。街に立ったやわらかい塔のように思う。

 基本的に短距離走の詩的なふくらみをもつ文章はやわらかく読む者を受けとめる。体調のわるい時にも読むことができる小説なのだ。ラクだし、浄化される思いをしたことがある。

 『哀しい予感』、『アルゼンチンババア』、『体は全部知っている』、『サウスポイント』、『彼女について』とぼくは読んできた。そして『もしもし下北沢』の連載を読みはじめたとき、よしもとばななは同じようなテーマ、物語の繰り返しを書きつづけているように思った。

 くり返し書く。いつも似たようなことを書く。「選択」なのか、「考え」なのか、まだよく分からない。失望した気持ちも持ったけれど、そのまま『もしもし下北沢』の連載を読みつづけているうちに、ある時それはそれでいいじゃないかと思った。とにかく読む者に、ある力を伝えてくるのだから。なにかを受けとることができるならそれはそれでいいじゃないかと思った。

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