朝の空
曇り。しかし雲の輪郭の線がはっきりみえる。
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曇り。しかし雲の輪郭の線がはっきりみえる。
大田区産業プラザPioのホールの空間。
おおぜいの人が集まっている場所からこのホールに出たときほっとした。ここに目がとまった。
雨。空はすべて雲。
『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)の巻頭の小林秀雄と坂口安吾の対談を読んで、初めて小林秀雄をイヤな奴だと思う。ひとが言おうとするのを押さえこむような話し方をする。批評を書いているときと、印象がちがってくる。相手を言い負かそうとするところがあるんだなと思う。
しかしこの昭和23年の小林秀雄は、荒っぽく言いたいことを言っていて面白くもある。
ひさしぶりに空の写真を撮った。晴れ。
村上春樹の『1Q84』<BOOK3>(新潮社)読み終わる。読ませる。読むのをやめられなくなる。しかし無気味な小説だった。気分がわるくなりそうになったときもあった。この小説が1,2,3とそれぞれ100万部以上売れているんだから、どういうことなんだろう。
『1Q84』の無気味さとはちがうがジョージ・オーウェルの『1984年』もこわい小説だった。まっとうな心と体と思想をもった男と女が、ある社会によってばらばらに解体されて、国や社会の望むように造りかえられていく様が生々しく残る小説で、こだわっていた小説だったが、ある時思いきって捨ててしまった。
『1Q84』<BOOK3>は読んでいて、いろんな世界に読み変えて解釈することもできるような気がして、日本社会の暗喩として読んでいるときもあった。1か所流れがつかめないところがあったが、村上春樹の長編エネルギーも底をつきかけているんだろうと思った。そう思っても傷にならず先へ読みすすめていけるのは、この物語を読みたくてたまらない気持ちにさせられていたからだ。『1Q84』は『海辺のカフカ』よりもはっきりと出来のいい、面白く読める小説だった。
多くの人たちに読んでもらう努力をしながら、同時に自分の書きたいことも書く、それは日本の社会のなかで、小説を書いていくということの、現実的なあり方を、可能と思われるあり方を自分の経験と心で考えたうえでの選択、選びとり方なんだろう。そもそも村上春樹は「物語」を書くことが好きな人だと思える。それも長く書くことが好きだ。
何がいいたいことなんだろうと考えるよりも、この長さからしても物語に触れながらあれこれ思うほうがまっとうな読み方だと思える。中心部に核が一つあるというよりは、あちこちに核が潜められているという感じだ。
村上春樹の目的は物語自体だと思える。自分が関心のあることを、みんなが楽しめるように、みんなが関心をもてるようにそんなふうに物語を書く、そこにそそぎこまれるエネルギーを愛しているようにみえる。
物語の頂点である青豆と天吾の再会から、世界の出口へのふたりの逃亡は美しくいきおいがある。村上春樹という作家のファンになりそうだった。充分な物語の終わりだと思う。
記憶によればぼくがいちばん最初に買ったシングルレコードはサイモンとガーファンクルの『ボクサー』で、LPレコードはマイルス・デイビスの『ジャック・ジョンソン』だった。
A面の「ライト・オフ」を聴いてジョン・マクラフリンのギターのもの凄いかっこよさにしびれた。マイルス・デイビスのトランペットがじゃまに思えたくらいで、「ライト・オフ」ではマイルス・デイビスのトランペットは要らないんじゃないかとさえ思った。
久しぶりに聴く、全部通して聴くのは何十年ぶりくらいか。今度はCDレコードだ。やっぱりジョン・マクラフリンの刻みこむようなギターはかっこよくて凄い。マイルス・デイビスのトランペットは要らないんじゃないかと思った印象はそれほどくつがえらない。B面だった「イエスターナウ」でマイルスは中心点として、ギターやベース、オルガン、ドラム、ソプラノ・サックスとバランスよく演奏している。
何故か『ジャック・ジョンソン』を買ったときの情景はぼくのなかで生きつづけていて、田舎の駅前にちかい、十字路に面したレコード店でちょっとか、かなり迷って買ったのだ。窓の外が白っぽかったから、晴れた日だったと思う。高校生のとき買ったのだと長いあいだ思いつづけていたけれど、高校を卒業してからだった。
下北沢の小さな神社。お稲荷さんというのだろうか。
下北沢は人がいっぱいだった。ここはしんとしていた場所。
ひさしぶりに観ると実に新鮮で面白かった。
新宿・花園神社に唐組の『百人町』を観に行った。新宿そのものが久しぶりで、開場までの時間つぶしに紀伊国屋書店に行ってみた。人、人、人で、1階、2階に『1Q84』がたくさん平積みされていた。
唐組の芝居をかなり長いあいだ観に行っていた。公演ごとに、それから毎年に、という感じだったが、最後のころは何で唐十郎はいつも似たような芝居をつくるんだろう、いつも似ている芝居を観ている。何故ちがうスタイルの芝居を作らないのか、そんな疑問をもつようになった。しかし、『百人町』を観ていて、それはそれでいいような気がしてきた。このくり返し演じられるもののなかに唐十郎の描きたいものがあるのだという気がした。
『百人町』を観ながら唐十郎は生活というものをときどきは光る宝石のように扱ってみたいのだ。あるいは生活というものを精神性で貫徹できる世界として描いてみたくもあるのだ。そんなことを考えたりした。
「幼児性」「怪奇性」というコトバも頭のなかをよぎったが、ぼくのスタミナはそこで尽きた。といっても考えながら観ていたわけではない。唐十郎の芝居はストーリーを追ってもあまり意味はない。ただ観ていたほうがいい。唐十郎は意味を追えるようには作っていない、むしろ追いにくいように作ってある。
それにしても唐十郎の育った東京の下町にそれほどの、それほどこだわりつづけるようなものが、あったのだろうか、あるいは自分のそだった固有の世界にこだわりつづける力をいまも持ち続けているということなんだろうか、そのへんのことはまたいつかひらめくこともあるだろう。ただ唐組の芝居は三年に一度観るのがベストだと思って帰ってきた。
もう一つ、『百人町』の役者陣のなかではラーメン屋「味龍」を敵視してやまない病院院長を演じる辻孝彦の、最初から最後まで虚構性の強い演技が、『百人町』の舞台をささえる柱のひとつだと思った。怪優の味わいがある。
ながめのいい映画館というべきか。この映画館のなかのホールからみえる外の風景が好きだ。
名画座のような映画館よりもこのシネマコンプレックスのような、映画でなくてもまったくかまわないが、今日は映画館に来てみたという人が過半の映画館の方が活気があるというのは、皮肉だが事実だ。
ぼくもこういう映画館のほうがエネルギーをもらえているし、世の中のなかにいるという気がする。
前はとにかくリラックスしよう、しなきゃいけないと思って、見ごたえのあるエンターテイメント映画をさがしていたが、いまは暗くてもいい明るくてもいい、芸術映画でもエンターテイメントでも、とにかくいい映画を観ようと思うようになった。そのほうがいい。いい映画を観ればカタルシスがある。結局リラックスできている。そういう視点で映画を探すようになった。
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