「上海バンスキング」を観にいく
串田和美という演劇人を知ったのは、1999年、新国立劇場でブレヒトの『セツアンの善人』を演出したのを観に行ってからだ。
この芝居の印象は強烈で、それまで唐十郎の唐組の芝居ばかり観ていたぼくはその舞台の自由な弾むような空気に魅了された。1999年新国立劇場で観た『セツアンの善人』は忘れられない舞台だ。
その串田和美の演出した『上海バンスキング』を観にいく。作は斎藤憐、場所はシアターコクーン。
雨の日、開場までの時間つぶしにスターバックスにはいって外を歩く人たちをみていた。80年代、あれほど疎外感を感じさせられた渋谷の街だが、今は普通の人が普通の恰好をして歩いているようにみえる。
『上海バンスキング』の伝説的な評判は雑誌などで何度も目にしている。しかし観るのは初めて。笹野高史が客席の方から舞台にあがり、トランペットを吹くのが始まりだ。舞台は明るく疾走しながら観る者に常に「終わり」を意識させる。「ジャズの終わり」「青春の終わり」「でたらめな人生の終わり」、終わりに向けて走りつづける。
時代は戦前、日中戦争へとむかう世界の動き、日本から上海へとやってきた波多野四郎(串田和美)とまどか(吉田日出子)のカップル。波多野四郎はジャズメンだ。さきに上海に来ていたバンドマスターでトランペットを吹くバクマツ(笹野高史)と合流したとたんトラブルに巻き込まれるが、なんだかんだのあげく、上海のクラブで演奏しはじめる。
演技する者のほぼ全員が楽器を演奏する。ふつうに演奏できる。笹野高史がトランペット、串田和美がクラリネット、吉田日出子は歌姫という具合。バンドを背に舞台の中央で吉田日出子が歌うと、本当にキャバレーにやってきたような気持ちになる。
串田和美はあまり政治的なことは好きでない人だと思うが、『上海バンスキング』には政治の時代の刻印があちこちに打たれている。串田和美らもまた戦後の演劇の流れの中を歩いてきたのだと思った。
日本でも上海でも世の中は戦争へと進む。日本ではジャズは禁止された。上海でもジャズを演奏する場所がなくなっていく。ジャズの終わりはある生き方の終わりだ。波多野四郎(串田和美)は焦燥と失意のためアヘンに手をだしてしまう。そして本当の終わりがやってくる。ジャズメンは廃人同然になってしまう。
椅子にただ座っているだけのジャズメン。その場面の亀裂から噴き出すようにトランペットが鳴る。クラリネットが鳴る。サックスが鳴る。一人ひとり去って行ったはずの仲間たちが突然あらわれて演奏しはじめる。すべて昔のままだ。何も変わっていない。夢なのか現実なのか、廃人の最後の叫びなのか、胸が切なく熱くなる終わりだ。
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