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2010年3月

2010年3月29日 (月)

コミュニティマガジン「い」 愛敬浩一の評論

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 コミュニティマガジン『い』(いの会)2号の愛敬浩一の「場所と経験ー黒井千次『羽根と翼』論」を読んだ。

 本格的な文芸評論を読んだのはひさしぶりだ。というよりも読む気になったのはひさしぶりだ。

 ぼくからするとよくこんな長い評論が書けるものだなと思ってしまうが、愛敬浩一はこの文章の中で「長編評論」というコトバを使っていて、この文章は愛敬浩一のなかでは中編評論くらいの意識だと思う。もしかしたら短編評論と思っているかもしれない。長く書く評論の文章のリズム、息つぎはこうなるのかと思いながら読んだ。

 愛敬浩一は黒井千次の『時間』『五月巡礼』『羽根と翼』の三つの小説に、「戦後」というものに刻印された心をもつ人間、という型を見、その男たちが「今」という時代まで歩いてきたとき、どんな街の風景を、どんな自身の心象に立ち会わなければならないかを書く。労働を、ソルジェニーツィンを、新宿の風景を語る。

 この文章ではソルジェニーツィンの評価以外にはとくに違和感をもたなかった。

 コミュニティマガジン『い』の2号には創刊号にはなかった「総合文芸誌」の呼び名が付いている。やる気満々だ。

2010年3月28日 (日)

開花

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 桜が咲きだした。

2010年3月25日 (木)

増村保造の「刺青」を観にいく

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 『シャーロック・ホームズ』にしようか、『刺青』にしようか迷ったが、完成度の高さなら増村保造だろうと思い、ラピュタ阿佐ヶ谷に出かけた。

 阿佐ヶ谷でラーメンを食べたいと電車に乗っているあいだじゅう思っていたが、時間がなく駅のそばのコンビニでおにぎりを買う。

 監督・増村保造、脚本・新藤兼人、撮影・宮川一夫、主演・若尾文子という布陣。1966年の映画。

 江戸時代、質屋の娘(若尾文子)が手代(長谷川明男)と駆け落ちをするが、身を寄せた船宿の主人夫婦にだまされ、手代の男は殺されかける。娘は背中に刺青を彫られ、芸者に売られてしまうという恐ろしくも哀しい話がまずは始まりの部分で、原作が谷崎潤一郎なので、これは妖しい映像美の世界が展開されるのかと思うが、そうはならない。

 大凶というほかない不運、不幸の連続の主人公だが、生命力がすごいというべきか、背中に彫られた女郎蜘蛛の刺青のたたりなのか、まるで栄養剤のように「不運」をバリバリボリボリ食っているようで、悲劇を観ているというよりも、生命力と性のエネルギーの運動を観ているような気になる。

 こぢんまりしたところがあって、映像美というには緊張感が足りなかったし、きわだった完成度はない。若尾文子は最初から、駆け落ちのときから元気いっぱいで、原作はどうなっているのだろうと思ったりしたが、しかし観終わって面白いと思う。腹がいっぱいになったという感じだ。増村保造という監督は一筋縄ではいかない人だと思った。

2010年3月22日 (月)

朝の空

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 晴れ。青い空。

2010年3月21日 (日)

「用心棒日月抄」

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 藤沢周平の小説のなかでいちばん親近感をもっているというか、特別な思いをもっているのが、『用心棒日月抄』(新潮文庫)シリーズ。亡くなった母の部屋に残った大量の文庫本のなかの一つに『用心棒日月抄』シリーズの一冊があったということがあるけれども、明るくホッとさせられたのだと思う。葬式の後だったか、もっと後だったか、田舎から東京に帰ってくる新幹線の中で読んで救われたのだと思う。

 そんなことがあって、気が滅入ったときのとっておきの一冊という感じで読む。読んだのは今度で三度目になるか。シリーズには四作品が、『用心棒日月抄』『孤剣』『刺客』『凶刃』とあって、面白くて楽しい。読んでいるうちに気が明るく晴れてくる。

2010年3月18日 (木)

「悪人正機」

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 買ったまま読まずにいた『悪人正機』(朝日出版社)を読んでみる。

 吉本隆明が糸井重里に対面して語ったことを本にしている。

 小林秀雄が小幅で言い切るというか小さく言い切るとすれば、吉本隆明は大きく言い切る。これは資質なんだろう。小説を書いていた人と詩を書いていた人のちがいかもしれない。

2010年3月10日 (水)

朝の空

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 曇り。雪が残っている。

2010年3月 3日 (水)

「上海バンスキング」を観にいく

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 串田和美という演劇人を知ったのは、1999年、新国立劇場でブレヒトの『セツアンの善人』を演出したのを観に行ってからだ。

 この芝居の印象は強烈で、それまで唐十郎の唐組の芝居ばかり観ていたぼくはその舞台の自由な弾むような空気に魅了された。1999年新国立劇場で観た『セツアンの善人』は忘れられない舞台だ。

 その串田和美の演出した『上海バンスキング』を観にいく。作は斎藤憐、場所はシアターコクーン。

 雨の日、開場までの時間つぶしにスターバックスにはいって外を歩く人たちをみていた。80年代、あれほど疎外感を感じさせられた渋谷の街だが、今は普通の人が普通の恰好をして歩いているようにみえる。

 『上海バンスキング』の伝説的な評判は雑誌などで何度も目にしている。しかし観るのは初めて。笹野高史が客席の方から舞台にあがり、トランペットを吹くのが始まりだ。舞台は明るく疾走しながら観る者に常に「終わり」を意識させる。「ジャズの終わり」「青春の終わり」「でたらめな人生の終わり」、終わりに向けて走りつづける。

 時代は戦前、日中戦争へとむかう世界の動き、日本から上海へとやってきた波多野四郎(串田和美)とまどか(吉田日出子)のカップル。波多野四郎はジャズメンだ。さきに上海に来ていたバンドマスターでトランペットを吹くバクマツ(笹野高史)と合流したとたんトラブルに巻き込まれるが、なんだかんだのあげく、上海のクラブで演奏しはじめる。

 演技する者のほぼ全員が楽器を演奏する。ふつうに演奏できる。笹野高史がトランペット、串田和美がクラリネット、吉田日出子は歌姫という具合。バンドを背に舞台の中央で吉田日出子が歌うと、本当にキャバレーにやってきたような気持ちになる。

 串田和美はあまり政治的なことは好きでない人だと思うが、『上海バンスキング』には政治の時代の刻印があちこちに打たれている。串田和美らもまた戦後の演劇の流れの中を歩いてきたのだと思った。

 日本でも上海でも世の中は戦争へと進む。日本ではジャズは禁止された。上海でもジャズを演奏する場所がなくなっていく。ジャズの終わりはある生き方の終わりだ。波多野四郎(串田和美)は焦燥と失意のためアヘンに手をだしてしまう。そして本当の終わりがやってくる。ジャズメンは廃人同然になってしまう。

 椅子にただ座っているだけのジャズメン。その場面の亀裂から噴き出すようにトランペットが鳴る。クラリネットが鳴る。サックスが鳴る。一人ひとり去って行ったはずの仲間たちが突然あらわれて演奏しはじめる。すべて昔のままだ。何も変わっていない。夢なのか現実なのか、廃人の最後の叫びなのか、胸が切なく熱くなる終わりだ。

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