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2009年6月

2009年6月28日 (日)

「剱岳 点の記」(つるぎだけ てんのき)

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 映像のすごい映画だ。本当に凄い。

 山の実録というか、ニュースや記録映画ではこれほど山の自然の凄さを写し取ることはできなくて、俳優を使い山を舞台にした映画を撮るという設定によってはじめて、この山の凄さを撮ることができたのだと思う。

 ふつう才能というのは、「世界の中心はお前だ」とごく自然に、当り前に、正しく育てられた子どもが大きくなって、時代の強大な圧力にさらされながらも、割合あっさりと、自分のほうに軸足を移せることによって生み出されるオリジナリティーだとすれば、監督の木村大作の才能はかなり特異だ。

 山の自然に<私>というものを溶け込ましてしまいながら、私というものを完全に拡散させてしまいながら、すぐれた「作品」を生み出すことができている。例外的な人なんだと思う。

 新田次郎原作の、剱岳を初めて測量しようと登山する人間たちの映画、というよりも初めて人間によって測量されようとする剱岳の物語の映画といったほうがいいだろう。

2009年6月25日 (木)

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 暑くなって、ようやく夏らしくなった。

2009年6月23日 (火)

カウンターで読む「小林秀雄」

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 まだまだまだ小林秀雄から多くのものを吸収しつづけている。

 昔のノートを読み返していたら20代半ば頃に『ドストエフスキイの生活』を2日で読んだという記述があった。読んだこと自体を忘れていた。

 ちょうど今、小林秀雄を読むのにいい時期が来たということかもしれない。

2009年6月17日 (水)

「点ーten-」

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 宇多田ヒカルの本、『点ーtenー』(EMI Music Japan Inc)を読んでいる。

 宇多田ヒカルがじぶんで書いている「はじめに」を読んだ中心的な印象は「スピードがある」ということ。

 素直でストレート。読んでいてきついなあと思うところもあるが、ほとんどが「時代の言葉」ではなく、自分のなかを通ったコトバを書いている。それは大したことだと思う。

2009年6月14日 (日)

「悪い神」を読む3(終)

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 相変わらずねちっこい、濃い、エロスにみちた詩をとどけてくる。上手い詩人でもある。こういうエロスと社会を視野にいれた詩を書く個性というのは、ぼくはあんまり知らない。

 がっかりしたところもある。この詩集には突然俳句がでてくる。俳句の集まりで作ったという句が12ページにわたって載っているのをみて、何故だろうと思う。この詩集に必要なものだとは思えない。正直ゆるんでいると思った。

 しかし詩を読んでいて、築山登美夫はまだ「違和」をからだのなかに残していると思った。そのことを感じた時、ぼくのなかで黙りこむものがあった。この詩人について考えた。

 猥雑なギトギトした詩行をつくりあげてきた築山登美夫はシンプルなほうへ、簡潔なほうへすこし動いたようにみえる。猥雑だけれどもくっきりした輪郭の詩がある。「青空」にそれを感じる。「青空」はその果てに自在さも持っていて、ぼくは可能性を感じた。

2009年6月10日 (水)

「悪い神」を読む2

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 築山登美夫は手だれの詩人である。失敗作というか、あきらかに出来のわるい詩というものは読んだ記憶がない。いつも一定以上のレベルの詩をきちんと届けてくる。ぼくの本棚には『解剖図譜』『異教徒の書』『晩秋のゼームス坂』と三つの詩集があり、この『悪い神』が四冊目となる。

2009年6月 4日 (木)

「悪い神」を読む1

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 築山登美夫(つきやま・とみお)さんから送ってもらった詩集『悪い神』(七月堂)、ちょっと読んでみようかと思ったが、本のページが開かない。本のなかの紙の、下と横が裁断されていない。こりゃあ製本ミスだなと思ってハサミとカッターナイフで結局、最初から最後まで自分で裁断することになった。

 とにかく知らせたほうがいいだろうと思い、メールを出した。返信が来て、これは製本ミスなのではなくて、「フランス装」という本の造りだと知った。(ペーパーナイフあるいは食事用のナイフで切りながら読むという形式)。フランス装の本来の形式だそうだ。ものを知らなくて恥をかいた。

 この形は装本者の希望であり、その希望を築山さんが受け入れて、こういう形になったということらしい。

 しかし時間が経つにつれて、これには「前フリ」が必要なんじゃないかと思うようになった。いまの文化状況や社会に対するひそやかな異議がこの「フランス装」にこめられているとしたら、メモやなにかで前もって知らせておかなければ、ただの面倒な本になってしまう可能性がある。大半とは言わないが、たぶん過半の人間はぼくとおなじような反応、製本ミスだと思うはずだ。「ひそやかな異議」が「ひそやかな異議」としてとどけばいいと思うが。

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