晴れ、そして辺見庸
2月1日、NHK教育テレビのETV特集『作家・辺見庸・しのびよる破局のなかで』を観た。それまではテレビ朝日の『パイレーツ・オブ・カリビアン』を観ていたので、10チャンネルから3チャンネルにもっていくのに、力がいった。いったが、3チャンネルに切り替えた。
辺見庸ほど、リアルに「今」を語れる人はいないと思った。じつによく見ている。話を聞いていて、恐ろしくなった。日常というものを否定されたように感じる。しかし日常というものは人間の「生きていこうとする志向」が生み出したものだともいえる。
辺見庸の言うことをそのまま身体的に、全体で、受け入れると、「生きていこうとする力」を失ってしまうように思える。そこで辺見庸はいわば、自分の語っていることにどうやって耐えているのだろうと、テレビの画面のなかの、辺見庸の表情や体の動きを注視した。今のぼくの関心、テーマではそこにいってしまうのだ。そしてみえてきた。辺見庸の「スタイル」がみえた。
あれから何日か経ったわけだが、辺見庸のテレビの画面のなかの表情が残像のようにのこっている。それは「スタイリッシュで」「陰鬱で」「恥を知っている」「影の中で社会の底をじっと見ている眼」だった。ぼくは日常を選ぶ人間だけれども、しかし、辺見庸の言ったことは、日々の暮らし、テレビ、新聞、インターネットのニュース記事、それらを受けて生きているぼくの、視覚や聴覚の底にあるもの、その破片の集まりの回路をたどると確かに、その「像」その「考え」は浮かびあがってくるのだ。
正月に田舎に帰ったとき、買ったのが、よしもとばななの『彼女について』と村上春樹の文庫本『海辺のカフカ』(上)だった。『彼女について』は読みだしていたが、新聞に書評が載って、その印象が残っているので、いったん止めて、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでみたい。何か書けることがあるなら、書いてみたい。
そしてその前に、福島敦子さんの詩集『永遠さん』の批評をやってみたい。
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