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2009年2月15日 (日)

「永遠さん」を読む2

 福島さんはゆらいでいる。『永遠さん』のなかの詩編「川べりの温泉」は福島さんらしからぬスタイルと雰囲気の詩で、なんで福島敦子はこんな試みをしているんだろうと思う。こういうことはしなくていいんじゃないか。こんなにゆらぐ必要はないと思う。はっきりと天分をもった詩人だ。

 「フレ、フレ」は生きている詩だといいたい。いまの福島さんの嘘ではないところから言葉が書かれている。言葉が福島さんとちゃんとつながっている。だから緊迫感がでている。

 終わった所から、終わっていないような気持ちの詩を書くと緊迫感がなくなってしまう。「永遠狂い」がそうだ。終わってしまったなら、終わってしまったところから書くのがいいのだと思う。

 そして観念的な生活からはなれた者が持つキツイ視線が生きている詩もある。「詩の信者」がそうで、一度読んで笑い、二回目読んで泣き、三回目また笑った詩だ。(そう言ってみたい詩だ)

 「普通の人に」は福島さんと言葉のつながりが特にいい詩で、感動しつつ読んだ。しかし福島さんがほとんど慣用的につかう詩行が(慣用的になってしまう心で書いた詩行が)最後ちかく一行入っている。何故だ!と思ったが、福島敦子の生の軌跡がよく書かれている詩で、ぼくは強い印象を受ける。

 福島さんはホームページのなかの日記で、観念的な生活から離れた者がもつ視線で、詩を書いているものへの皮肉やチャカシを書いていた。そういう書き込みを長く読んだ。しかし突然詩集を出した。これはよくわからない。わからないが福島さんはあたらしい場所にきたのかもしれない。それはまだこの『永遠さん』には書かれていないものだ。

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