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2009年1月

2009年1月29日 (木)

「センチメンタルジャーニー」について3

 北村太郎が語る。

 第二部で、最初に目がとまるのは、北村太郎が「水も洩らさぬ体制が昭和十七、八年くらいにはできていたわけです。」と語る戦争時の日本の社会の窮屈さをしゃべっているところだ。怒気に満ちている。歩いていて急にごつごつした道に出たような感じだ。

 1944年(昭和19年)、北村太郎は海軍予備生徒教育隊に入る。そこを出て通信学校で暗号解読の勉強をする。そして通信隊に配属される。北村太郎は戦争に行った時のことと、戦争をしている時の日本の社会のことを思いっ切りしゃべっている。ぼくなんかには太平洋戦争というものの貴重な記録になる。

 1945年(昭和20年)、戦争が終わる。北村太郎は「敗戦」という言い方にこだわる人もいるけれど、そのことは分かるけれども、自分は「終戦」に近いような受けとめ方だったと言っている。このときぼくは「敗戦」という言い方にこだわる吉本隆明を思いだしているのだが、北村太郎のような「戦争が終わった」という感じ方もなるほどなと思う。

 戦後の混乱時、北村太郎は東京大学に入学する。大学に籍を置きながら、古道具屋、通信社のニュースの翻訳、保険の外交員といった仕事をしている。19歳で結婚した北村太郎は、戦争が終わった時には、もう妻と子どもがいたのだ。

2009年1月25日 (日)

みつこおばさん

 きのう、みつこおばさんが103歳で大往生したという知らせがあった。どういう血縁だったか、聞いたが忘れてしまった。ただ103歳という年齢は、本人も、まわりも納得できる「数字」といえるだろう。感傷的にはならず、ただ「なじみの人だなあ」と思い出した。

 子供の頃の、夏の田舎の家に「ちょっと休ませてもらうで」とか言ってやって来て、首に巻いた手ぬぐいで顔をふいている。その仕草と顔を思い出した。みつこおばさんは、日に焼けた顔と手足の、がっしりとした骨組の、気さくな人だった。たいてい祖母と短い話をして、すぐ出ていったと思う。

 今朝、布団のなかで、目がさめる前にこの場面が浮かんできた。さっき風呂にはいっているときも、この場面を鮮やかに思い出した。記しておこうと思う。

 合掌。

2009年1月23日 (金)

 まだ、空は明けきっていないが、雨がふっている模様。

 1月21日の毎日新聞の夕刊にオバマ大統領の就任式について、「前夜祭の方が盛り上がったフェスティバル。」「200万人の高揚感がオバマ氏の就任演説を境に明らかに変わったように見えたからだ。」「人々が気勢を上げるきっかけをつかめず、戸惑うのは当然だろう。」という記述があった。これは本当だろうと思う。しかし新聞に載っていた就任演説(全文)を読んで、いい演説だと思った。テレビの報道ステーションで比較的長く、オバマ大統領の演説をながしていたが、やはりいい演説だと思った。

 演説にはいくつかのポイントがあると思う。それを読んで、すくなくともオバマ大統領がそのことに関しては、いい方向にもっていくだろう、もっていこうと努力するだろうと思えて、ほっとした。この演説を読んだ限りでは、わるい方向にはむかっていないように思う。

2009年1月20日 (火)

曇り

 曇り。

 オバマ次期大統領のニュースを見る。

2009年1月19日 (月)

「センチメンタルジャーニー」について2

 『センチメンタルジャーニー』、1939年(昭和14年)頃の北村太郎までくる。16歳から17歳。日中戦争はすでに始まっており、戦争の影が濃くなってきている。影の濃淡はあるが、そのことから誰も自由ではいられない。自由ではいられないが、少年の北村太郎は軽々と生きてもいる。

 北村太郎の家は浅草でそば屋を営んでおり、その繁盛ぶりが書かれている。ちかくに浅草花月劇場なんかがあって、芸人の益田喜頓(ますだ・きいとん)、坊屋三郎、山茶花究(さざんか・きゅう)らがよく食べにきたらしい。

 詩の仲間の中桐雅夫、鮎川信夫、田村隆一らのことも、気がねなく、自由に書いている。

 印象的なのは、すこし年長だった中桐雅夫と鮎川信夫に徴兵の問題がふりかかってきていることだ。中桐雅夫、鮎川信夫にとってはリアルというほかない問題だったろう。

 ぼくの好きな森川義信の詩「勾配」が紹介されている。いま読んでも胸がくるしくなるような、迫ってくる緊張感がある。全18行の詩だ。徴兵ということの、壁が向こうからじりっじりっと近づいてくるような圧迫感から書かれた詩なんだろうか。

 そしてこの詩の凄さを、周囲にいたものたちが、田村隆一も鮎川信夫も北村太郎もすぐに分かっている。詩が生きている。

 この森川義信に関する記述のところで北村太郎の文章は終わる。1992年10月26日、北村太郎は死んでしまったからだ。『センチメンタルジャーニー』は中断してしまった。ここまでを第一部として、あとは北村太郎が生前にテープで残したものを、第二部として収めているようだ。(第一部も、もともとはテープにとったものを基にして北村太郎が文章に書き直したもので、第二部はそれができなくなったということらしい)。いちど読んだはずだが、見事に覚えていない。

2009年1月15日 (木)

晴れ

 快晴。よく晴れている。

 買い物に行き、洗濯をする。

2009年1月12日 (月)

「センチメンタルジャーニー」について1

 ねじめ正一の『荒地の恋』(文芸春秋)を読み終わったあと、読んでみようという気になったのが、一度読んだあと、本棚に眠っていた北村太郎の『センチメンタルジャーニー』(草思社)。

 もう一冊北村太郎のエッセイ本をもっていたが、それは捨ててしまった。

 『センチメンタルジャーニー』。1993年9月の発行。すこし読んでみる。文章は淡々としてとても読みやすい。

 北村太郎の詩集は買って持っていた。しかし捨てたのかもしれない。本棚に見当たらない。「荒地」の詩人の、ほとんどの詩人の詩集をもっていたと思うが、捨てたり失くしたりしたようだ。今すぐ本棚にみつけられるのは、吉本隆明、鮎川信夫の詩集だけだ。

 『センチメンタルジャーニー』のほうが『荒地の恋』よりも北村太郎という人間についてよくわかる。しかし『荒地の恋』を読まなければ、この本を読む気にならなかっただろう。

 4分の1ほど読みすすめたところで思う。この自伝、かなり細かい。北村太郎のファン以外はどう読んだだろう。

2009年1月11日 (日)

晴れ

 快晴。よく晴れている。

 きのう、おとといの寒さはこたえた。今朝もさむい。

2009年1月 6日 (火)

晴れ

 晴れている。快晴。天気のいい日がつづく。

 朝は納豆ご飯。

 テレビを見る。

2009年1月 5日 (月)

「吉本隆明語る」

 NHK教育テレビ・ETV特集『吉本隆明 語る』という番組を観た。観ているあいだ、ぼくは幸せだった。(ただしく言えば講演中の吉本隆明の表情を観ているあいだ)。ビデオに撮ろうとしたが、ビデオデッキの録画能力がもう駄目になっていて、これは集中力を全開させるということを考えれば、この方がよかったと思う。

 足が不自由なようだったが、全く問題なかった。講演時83歳ということを考えれば、かなり丈夫な83歳ということになる。

 娘のよしもとばななさんの公式サイトの日記で、吉本隆明の動静というか、様子をときどき知ることができるが、これは娘さんの書いた父親のことということであって、ウのみにすると間違うというか、日記に書かれる吉本隆明よりも、テレビで「生」で観る吉本隆明ははるかに大きな存在とみえた。

 あまりにも吉本隆明の影響を受けているので、いまは吉本隆明の本は読まないようにしているし、相対化しようということのなかで、ぼくは吉本隆明を矮小化してしまっているところがあるなと思った。

 ぼくが信頼している身体の専門家の生活環境比較論のようなものや、何をされたわけでもないだろうが、吉本隆明を恨み骨髄に思っている詩人の話や、矮小な人間たちの矮小な人間観を聞いていたりしているうちに、ぼくはその影響を受けていた。

 足はダメでも頭と心はちゃんとしているという<からだ>の状態はあるんだなと思った。講演中の吉本隆明の表情を観ていて思ったのは、吉本隆明は「自分でつくりだした生をいきている」ということだった。

 生活イコールではない、体イコールでもない、それにすべて還元されるわけではない、「自分でつくりだした生をいきている」ひとの表情を観ていて、ぼくは幸せだった。こういうふうに人は生きることができるのだと思った。83歳という年齢は介護のよしあし、住居のよしあし、体のよしあしに影響されるだろうが、そのすべてを足しても、いまの吉本隆明という存在が表わされるわけではなく、「自分でつくりだした生をいきている」ことがプラスされて、はじめてこの人の今が語れるというものだ。

 吉本隆明自身、話のうまい人じゃないし、表情を注視していたこともあって、講演の中味、言ったことの内容はあまり分からなかった。ひっかかったのは、「表現すると、表現したことが自然にあたって、はねかえって、じぶんに影響をあたえる。表現するとそのことによって自分は表現した方向へと変化する。自然との関係によってたしかに変化する」ということ、(だいたいこんなこと言っただろうと思う)。ほかは講演が終わって、家に糸井重里が訪ねていって、話を聞いているとき、「1000年前の人間は思ったり、考えたりしたことを表明しようとしたら歌以外にはなく、歌にすべてがこめられたが、いまの人間は歌ひとつということではなく、いろんな関心が存在するから、いろんな知識を得てしまったから、歌ったとしても、こめられる力は1000年前の人間のように単純に強烈に、とはいかない。歌ひとつというわけにはいかない。1000年前のような強い歌はつくれない。歌としては今のほうが落ちる」というようなことで(だいたいこんなこと言っていたと思う)。これらはぼくのアンテナにひっかかった。

 この社会にふつうに流通している言葉で感じ、考えなければ、心・技・体が働いていないのであり、つまりちゃんと考えていないのであり、抽象的な言葉では頭は働いているかもしれないが、それはちゃんと考えていないのだ。というのが今のぼくの考えだが、吉本隆明は例外的に頭で考えることが、心・技・体で考えているような人だった。

 人の言葉で生涯を生きてしまうのはあまりにも悲しく、また吉本隆明というひとは人に影響をあたえやすい言葉をつむぎだせる人だから、今はやはり読まないほうがいいだろうと思う。

 ただ影響から離れたいと思うあまり、矮小化してしまうことなく、その大きさを大きさとして受けいれていたいと思う。

 ぼくの能力(タイプがちがう)や勉強量では吉本隆明の仕事を咀嚼してのみこむことは無理であり、丸飲みということになりやすい。いい距離で、ヒントをもらうように読めるときがくるだろう。そのときまた吉本隆明の書いたものを読んでみたいと思う。

 本だけでなく、糸井重里さんがしゃべりを録音、保管しているようであり、これはいい距離で吉本隆明を「読む」ことの手段になりうるのかもしれないと思った。「聞く」というかたちで吉本隆明の仕事に接するのも面白いだろう。

2009年1月 4日 (日)

墓参り

 母の墓参りをして帰って来た。

 田舎の空気は澄んでいた。

 

 快晴。よく晴れている。

2009年1月 1日 (木)

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いいたします。

 2009年 元旦

 

 快晴。雲ひとつない。

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