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2008年12月

2008年12月31日 (水)

よいお年を

 今年もいろいろあったように思うけど、大みそかになりました。

 今年は心をじぶんの望む方向にすこし強くすることができたと思います。

 去年まではできないことでした。

 来年もこの方向に進みたいと思っています。

 いろいろな方のお世話になりました。

 ありがとうございました。

 よい年をお迎えください。

2008年12月30日 (火)

猫つながり

 『荒地の恋』を読み終わって、古い友人が付けたままにしている書店のカバーを取ってみる。

 猫がこちらをにらんでいる絵が装丁につかわれている。猫つながりか、とわかる。

 古い友人のほうから早川義夫のライブに行きたいという連絡があったのだ。早川義夫の公式サイトには猫の写真がよく載っている。古い友人は長いあいだ飼っていた猫が死んだばかりだった。そして『荒地の恋』の主人公、北村太郎は無類の猫好きとして描かれている。猫の好きな連中が集まったわけだ。

 ぼくは猫好きじゃないが、子供の頃の田舎の家には犬も猫も居た。夜寝ていると猫が布団のなかに入ってくる。足に触れるその猫がとても暖かかったことを思い出す。あるとき寝ているぼくがプッとヘをこいた。猫も臭かったんだろうな、すーっと離れていって布団の端に寄ったことも思いだした。

2008年12月29日 (月)

「荒地の恋」最終章

 『荒地の恋』最終章「すてきな人生」

 『荒地の恋』とは「荒地」の終わりの物語だなと思う。

 無茶苦茶な連中があつまっている。しかしこの人たちの詩をぼくは長く愛していた。

 北村太郎は検査の結果入院する。不治の病だと宣告される。余命は長くて3年。

 退院して若い友人たち、そして娘と食卓を囲む北村太郎の心の動きがよく書けている。ねじめ正一は北村太郎に敬意をもっていると感じる。

 ここからは一気に読む。阿子がでてきてほっとする。ページが残り少なくなっているのに出てこないからだ。横浜駅ビルの喫茶店で待ち合わせた北村太郎と阿子はラブホテルに入り、はげしく愛し合う。

 北村太郎にとって若い阿子は菩薩のような存在だった(読者にとってもそうだ)。じっさいに存在したのだろうかという気になる。

 病気は重くなる。死がちかい。現実の北村太郎が残したような日記のかたちの、日付の入った記述がつづく。ねじめ正一が作っているのだとしたらアイデアもふくめて秀逸だ。

 生の晩年を「荒地の恋」に生きた北村太郎は死ぬ。

 最後は阿子の独白で終わる。北村太郎とのことが語られる。北村太郎のお別れ会にでた阿子は北村太郎の双子の弟に会う(じっさいに北村太郎には双子の弟がいたのだ)。そこで阿子は言う、

 「私、北村さんの恋人だったんです」

 双子の弟は、北村太郎の死に際のことなどを阿子におしえたあと、最後にいう

 「北村太郎を幸せにしてくれて、ありがとうね」

 

2008年12月25日 (木)

怪人二十面相を観た

 12月23日、祭日の日に『K-20怪人二十面相・伝』を観に行った。

 窓口で通路わきの後ろの方と席の希望を言ったが、

 「お客様、本日残っているのは前の方か、うしろはこの席しか空いておりません」ということで、後方中央の席となった。

 『K-20怪人二十面相・伝』。原作北村想。北村想というひとはどういうつもりだったか、今はわからないが、切り抜き用のファイルに北村想「屋根の上のインド人」というエッセイが入っている。

 何新聞のものかわからない。「育む・学ぶ」という欄にあるエッセイだ。このエッセイで自分は空想癖があり、「頭の中で作った物語の世界に同化して、・・・」と書いてある。『K-20怪人二十面相・伝』のラストの想定外の展開に、北村想の空想癖が爆発するところを観たように思った。

 「お客様、本日残っているのは・・・」と言われた場合、けっこう空いている席があったりするのだが、その日は本当に満員だった。スクリーン前の席まで客が座っている。

 映画が始まる。怪人二十面相。明智小五郎。怪人二十面相にまちがえられる男。前半はダイナミックな展開がないと思ったりしたが、停滞を抜ける。観終わった感想をいえばよく出来ていた。美術は見事。日本映画としては快作の範疇にはいるといいたいが、断言できない。

 というのは祭日の日の後方中央の席は鬼門であって、その日となりに座ったのは、よくしゃべるオバサンたちだった。黙っていられないんだな。反応がいいのはいいが、いちいち声にだす。こういう場合、あきらめて、状況を受け入れることにしようと、このごろはそう考えるようにしているが、集中力全開とはいかなかったのだ。

 監督・脚本は佐藤嗣麻子。物語の展開のはしょり方がうまい。出演は金城武、松たか子、仲村トオル。

 となりにあまりしゃべらない客が座れば、じゅうぶん楽しめる映画のはずだ。悪党に深みをあたえると映画は生きる。

2008年12月23日 (火)

「幸四郎弁慶夢に舞う!」

 テレビで『幸四郎弁慶夢に舞う!」というドキュメンタリースタイルの番組を観た。

 昼の2時から始まる番組で、その日は『K-20 怪人二十面相・伝』という映画を観に行く予定だったので、30分ほど観て出かけるつもりだったが、その30分を観ているうちに出て行くことができなくなった。

 歌舞伎役者というのはすごいカラダをしているんだなと思った。花道での「飛び六方」だというのだと思うが、それを観ていて、そう思った。「飛び六方」をやった弁慶役の松本幸四郎が階段を下りてくるとき、足は外開きになっており、その映像をずっと観ていると、役者のカラダというものをまざまざと感じた。

 人に完璧主義といわれてしまう人間の、じぶんにではなく、舞台に自分を合わせようとする、周囲にもそれを要求するツラサが見えたし、役者の家、家族というものがどういうものかもよく映っていた。松本幸四郎の家、家族というものは、要するに高麗屋という九代目松本幸四郎を柱にした家なのだ。一家なのだ。

 石坂浩二のよく番組に合っているナレーションを聴きながら、ほかにもいろんなことを思った。松本幸四郎はだいぶ前に煙草をやめたはずだが、パイプをくゆらしていたこと、華やかな松たか子が、高麗屋・松本幸四郎一家の娘の顔になっていたこと、松本幸四郎の奥さん、高麗屋の女房がざっくばらんなこと、あまり表にでてこない松本紀保が洗練された感じの人であること、市川染五郎の息子が美形であること、などなど。

 映像から目を離さずに観た番組だった。仕事のストレスを吐きだすためとにかく外に出ていこうと決めていたが、最後まで観てしまった。

2008年12月21日 (日)

晴れ

 晴れ。よく晴れている。最高予想温度19℃。

 『荒地の恋』を開く。

 鮎川信夫が死んだ。鮎川信夫の甥からの連絡をうけた北村太郎は強いショックを受ける。地がまわる。部屋がまわる。空がぐるぐるまわる。

 「ひでえもんだ。もう終わりだな」

 鮎川信夫は『荒地の恋』の登場人物のなかでもっとも魅力的な人物だった。無償のにおいがする詩人だった。

 じぶんの私生活をまったく人に知らせない。どこに住んでいるのか、結婚しているのか、いないのか。子供がいるのかいないのか誰もしらない。

 鮎川信夫に連絡をとろうとするときは、住処がわからないので、もう一人の甥の真に連絡をとる。そうすると鮎川信夫から電話がかかってくるのだ。

 鮎川信夫が荼毘(だび)にふされる。この場面はいい。読む心がいっしょについていく。北村太郎はかけがえのない友をうしなったのだ。

2008年12月17日 (水)

 雨が降りそうな気配だなあと思っていたら、降りだした。

 『荒地の恋』を開く。

 明子と田村隆一の暮らしはうまくいかない。田村隆一はアル中の治療のため入院し、こころを病んでしまった明子は精神病院に入院する。

 入院した明子を北村太郎は見舞う。明子の話を聞いてやるために。北村太郎は明子のことがよくわかるのだ。ふたりは「仲間」なのだ。

 北村太郎は阿子の目を気にしながらも見舞いつづける。

 阿子という女性は実際にいたんだろうか、と思うがどうなんだろう。

2008年12月14日 (日)

 雨。雨が降っている。

 『荒地の恋』を開く。

 少女は看護婦をやっていた。名は阿子。北村太郎は阿子と長い手紙のやりとりの末、結ばれる。男女の関係になる(こういうことがあるんだなあ、これも実話なんだろうか)。ブコウスキーの『詩人と女たち』を思い出すね。

 鮎川信夫から電話がかかってくる。

 「あのなあ。中桐が死んだんだよ」

 「荒地」の同人だった中桐雅夫が死ぬ。北村太郎はそのことを田村隆一に教える。衣更着信(きさらぎしん)、黒田三郎らの名前がでてくる。荒地の詩人たち。

 

 

2008年12月11日 (木)

晴れ

 晴れ。快晴。

 マイルス・デイビスの「ソー・ホワット」をとめて、『荒地の恋』を開く。

 北村太郎は生活のためカルチャーセンターで詩を教える。そこでこう考える。

 「生徒の詩の言葉にはいっさい手を触れないということである。ここをああしたら、こちらをこうしたら、というようなことはいっさい言わない。それで詩が少しよくなったとしても、その詩は厳密には生徒自身のものではなくなってしまうからだ。あるじからはぐれた言葉ほど淋しいものはない、と北村は考えている。そんな詩は糸の切れた凧で、ふわふわと漂った挙げ句どこかへ消えていってしまうのが関の山である。」

 これはねじめ正一の考えでもあるだろう。

 北村太郎は田村隆一の妻明子との関係が終わったものと考え、いっしょに住んでいた家を出る。アパートの一室を借りる。しかし北村太郎と田村隆一と明子との奇妙な関係はつづく。北村太郎と田村隆一はふるい友人であり、詩の仲間でもあるのだ。

 そしてある朗読会ですずやかな眼の少女と出会う。北村太郎はこの少女に強い気持ちのたかぶりを覚える。ええーっと思ったが、次の展開がはじまりそうだ。

2008年12月 9日 (火)

雲が多いが晴れそうな気配

 雲が多いが晴れそうな気配。しかし天気予報は雨だ。

 

 いい詩を読むとカタルシスがある。元気になる。からだのなかを血が走る。

 詩を常に書いているひとの詩は、ある心理状態にすっと入っていって、言葉のつなぎ目がみえないようになっている。今日のいい詩はそうだった。

 

2008年12月 4日 (木)

晴れ

 晴れ。快晴。雲ひとつない。

 

 喫茶店のテーブルに『ドストエフスキイの生活』と『荒地の恋』の2冊を置く。

 『ドストエフスキイの生活』のほうがすっきりする。しかし小林秀雄への自信値がゼロちかく落ちているので、『荒地の恋』を読みはじめる。

 北村太郎は田村隆一の妻明子と小さなアパートで暮しはじめる。

 せまい風景を歩いているような息苦しさから、ごくふつうの風景にすすんだような印象だ。

 北村太郎は詩を書く男らしい生活を始める。だがふと立ち寄った本屋で娘の優有子が文芸誌のなかの自分の詩をさがしているところを見てしまう。北村太郎は身体をよじるようにして本屋をでていく。

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