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2008年11月13日 (木)

きのうの新聞

 きのうの毎日新聞の朝刊「悼む」の欄に載っていた藤原章生記者の筑紫哲也さん追悼記事はいい文章だった。

 「NEWS23」はずっと見ていて筑紫哲也さんという人はマスコミの一員であると割り切って仕事をしているという印象もあったが、キャスターが代わってみると筑紫哲也という個性が番組の大きな柱の一つだったことがよく分かる。

 三年まえに母が死んだ。それを合図のようにして、知人、友人、親類のおじいさん、親類が死んだ。

 武蔵野赤十字病院に入院している友人を見舞いにいったときはつらかった。きびしい闘病生活をあらわして友人の体の一部が変形しており強いショックを受けた。

 二人で病室にずっといると、こちらの体にも歪みが生じてくるようだった。「また、こいよ。」と友人はいい、「ああ、また来るよ。」とぼくは答えたが、ぼくはもう見舞いに行くことができなかった。このときから「死がダメになった」。

 そのあと大阪の親類のおじいさんの葬式に出ることになったが、このときは完全に腰がひけており、死に顔をみないですむ位置を選びつづけた。出棺のまえ花を投げ入れざるえなくなって、おそるおそる死に顔をのぞいたが、苦しんで死んだ顔ではなかった。心の底からほっとした。年を充分にとって死んだひとの顔は人に不安感をあたえない。母の死顔もそうだった。

 いまでも「死」は苦手で、ぼくのすきな歌い手の早川義夫さんの伴奏者で、病死したバイオリニストのHONZI(ホンジ)さんの遺作ともいえるCDが出ているが、ぼくは買うことができない。彼女が小さなライブハウスで歌った「みんな夢の中」の歌をまだ覚えているが、聴く気になれない。

 これは身体の本能からくるサインであり、こういう声にはしたがったほうがいいのだと今は考えている。

 というわけでこの「悼む」の記事はあんまり読まなかったけれど、筑紫哲也さん追悼の文章は二回読んだ。

 記者が記者本人の思いをつづることよりも死んだ人に語らせているのがいい。実際いいこと言っている。 

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