「崖の上のポニョ」を観にいく
宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行った。『崖の上のポニョ』ではなく、宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行ったというのが気持ちのなかのものだ。
この映画では宮崎駿の能力というか、才能というか、天才的な表現能力を感じた。
宮崎駿の能力がでているのは、「絵」だ。『崖の上のポニョ』は絵の映画といえる。
背景の絵がいい。木、林、森、雲、波。台所の壁のタイル。それらは大胆にシンプルで象徴的で、これに目が吸い寄せられる。特に映画のはじまり近くに映る「草はら」が素敵だ。
これら背景の「絵」に魅せられた。
物語の展開する場所は、ぼくの田舎の瀬戸内海の海べりのちいさな街を想い起させる海の街。日本の海の街だ。
ポニョというのは、人面魚というか、人間にみえる魚というか、魚を人間にみえるように描いたというか、ちいさな魚のことで、このポニョの父親はフジモトというもと人間(海のなかを自在に行動する)、母親は海の魔女(デカくなったり、人間サイズになったりする)というまか不思議なもので、ポニョは魔法の力を、超自然的な力をもっているのだ。
そのポニョと人間の5歳の男の子、宗介との友情というか、ほとんど生きもの同士がもつ、秘めている、通い合いの物語だ。
子供のためにつくった映画だと宮崎駿は言っていたように思うが、ぼくの左のほうに坐っていたやはり5歳くらいの男の子は飴玉をバリっバリっと噛みくだきながら、文字通り、映画に観いいっていた。つくった宮崎駿は67歳だと思うが、よくこれだけちいさな子供の目線でものをみることが、ものを作ることができるもんだと心底おどろいた。
奇想天外な物語は、最後ポニョが人間の5歳の女の子になって終わるのだが、観ていて何処となくさみしく、何処となくあたたかい。「こどもは大人にならなくてはいけないのだなあ。」と観ていて意味もなくつぶやいた。映画が届けてくるのは、ぼくがずっと観ていたのは、「希望の熱い流れ」というものだと思う。
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