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2008年8月

2008年8月31日 (日)

「カムイ外伝」のこと

 『カムイ外伝』(崔洋一監督)で「老農民」をやっている奥村真さんから映画の話をちょこっと聞いて俄然観てみたくなった。ぼくが観たい、観ようと決めているのは、マーティン・スコセッシがローリング・ストーンズを撮った『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』だけだったから、もう一本増えたことになる。いいね、わくわくすることが増えるのは。

2008年8月26日 (火)

北京オリンピックが終わった

 雨。よく降る。今日も冷房はいらないようだ。

 北京オリンピックが終わった。結局、よく見た。開会式から閉会式まで、時間があると、テレビをみていた。テレビ番組としては面白いものだった。あれだけの人間が集まって、本気で戦うのだから、緊迫感がある。100メートル走のボルトはすごかった。

 野球が銅メダルも取れず、4位に終わったことが批判されているが、そんなに気にすることはないと思う。

 日本のリーグ戦のほうが大事だろうと思う。オリンピックの野球というのはわずかな国が集まるレベルの低いもので、ローカルスポーツの競技大会という感じだった。アメリカはマイナーリーグの選手を送ってきた。観客もすくなかった。

 そもそもこれからリーグ戦の優勝への戦いが盛り上がるという時期に各チームの主力選手をオリンピックに送るというのがどうかしていると思う。プロ野球をふだん見ているものにとっては気が抜けてしまう行為だ。プロ野球を支えているのは、球場に足を運ぶファンやテレビを観ているファンだ。そのファンを大事にしていないと思う。

 

2008年8月24日 (日)

 雨、夏の暑さのピークもすぎたようで、ホッとする。例年よりも体力の消耗がすくないと思う。エアコンを買ったのがよかった。寝る前はタイマーをかけるようにした。暑さで眠れないということは、ほとんどなかったと思う。

 休みも多めに取ることができて助かった。夏休みなしには、夏は乗り切れない、というような季節になってしまった。

 長田典子さんの新詩集『翅音』(はねおと・砂子屋書房)をゆっくりと読んでいる。長田典子さんといえば、圧倒的なエネルギーの散文長詩を書く人だけれど、『翅音』の巻頭の詩は行分け詩だ。これはどうしたことだと、「あとがき」を読んだりしている。

2008年8月20日 (水)

ガニメデの詩人

 いつもぶ厚い『ガニメデ』43号に載っている、里中智沙の詩「さくら」、「淡墨桜」二編を読む。

 里中さんの詩といえば、歌舞伎を題材にした歌舞伎詩をおもいだすが、今回は歌舞伎の詩ではない。

 「淡墨桜」は樹齢1500年の桜みずからの「嘆き」、「つぶやき」という形をとって作った作品。

 流れとしては今まで里中さんが書いてきた詩のなかにあるものといえる。

 歌舞伎ファンで、坂東玉三郎のファンでもある里中さんに歌舞伎座のチケットの買い方をていねいに教えてもらったが、クレジットカードでモノを買うということにどうも腰がひけて、まだ行ってない。

2008年8月17日 (日)

「サウスポイント」まで

 『体は全部知っている』を読んで、この短編集のことを書いてみようといろいろ考えているうちによしもとばななの小説は「鉱脈」になりうると思った。

 『哀しい予感』、『アルゼンチンババア』、『体は全部知っている』と読んできたが、よしもとばななは今の日本の社会、家族、個人のかかえる問題を極端な形で物語化し、象徴とし、まるでおとぎ話のような「現代の民話」を書いているともいえる。

 ちょうど吉祥寺のブック・オフで買った柳田国男の『日本の昔話』を、こっちは喫茶店で読むために買ったのだが、読んでいて似たところがあると思った。

 今の社会で、家族や個人におとずれる問題を、その立場を、よしもとばななは極端化し、開き、まとめ、「類型的な物語」にしようとしており、小説のなかにふくまれている、ある種「類型的な書き方」とも読める文章はここからきていると思う。

 よしもとばななの最新作の『サウスポイント』は、これまでのような「現代の民話」を書いているのかどうか、ぼくの関心はまずそこにあった。

2008年8月14日 (木)

谷本歩実選手

 柔道で金メダルをとった谷本歩実選手の笑顔が、表情が素敵だった。まだこういう人がいるんだな、と心が洗われる思いだった。 

2008年8月10日 (日)

「崖の上のポニョ」を観にいく

 宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行った。『崖の上のポニョ』ではなく、宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観に行ったというのが気持ちのなかのものだ。

 この映画では宮崎駿の能力というか、才能というか、天才的な表現能力を感じた。

 宮崎駿の能力がでているのは、「絵」だ。『崖の上のポニョ』は絵の映画といえる。

 背景の絵がいい。木、林、森、雲、波。台所の壁のタイル。それらは大胆にシンプルで象徴的で、これに目が吸い寄せられる。特に映画のはじまり近くに映る「草はら」が素敵だ。

 これら背景の「絵」に魅せられた。

 物語の展開する場所は、ぼくの田舎の瀬戸内海の海べりのちいさな街を想い起させる海の街。日本の海の街だ。

 ポニョというのは、人面魚というか、人間にみえる魚というか、魚を人間にみえるように描いたというか、ちいさな魚のことで、このポニョの父親はフジモトというもと人間(海のなかを自在に行動する)、母親は海の魔女(デカくなったり、人間サイズになったりする)というまか不思議なもので、ポニョは魔法の力を、超自然的な力をもっているのだ。

 そのポニョと人間の5歳の男の子、宗介との友情というか、ほとんど生きもの同士がもつ、秘めている、通い合いの物語だ。

 子供のためにつくった映画だと宮崎駿は言っていたように思うが、ぼくの左のほうに坐っていたやはり5歳くらいの男の子は飴玉をバリっバリっと噛みくだきながら、文字通り、映画に観いいっていた。つくった宮崎駿は67歳だと思うが、よくこれだけちいさな子供の目線でものをみることが、ものを作ることができるもんだと心底おどろいた。

 奇想天外な物語は、最後ポニョが人間の5歳の女の子になって終わるのだが、観ていて何処となくさみしく、何処となくあたたかい。「こどもは大人にならなくてはいけないのだなあ。」と観ていて意味もなくつぶやいた。映画が届けてくるのは、ぼくがずっと観ていたのは、「希望の熱い流れ」というものだと思う。

2008年8月 7日 (木)

サイモンとガーファンクル

 You Tube でサイモンとガーファンクルが1981年にセントラル・パークでおこなったコンサートの映像をずっとみている。

 ライブ映像を見ていて、アート・ガーファンクルのカリスマ的なオーラにびっくりした。

 サイモンとガーファンクルは、作詞・作曲をやっているポール・サイモンのイメージが強くて、ガーファンクルはつまみという感じだったが、ちがう。ライブ映像でみると、アート・ガーファンクルの存在の大きさが分かる。音楽的にもそうだし、その歌、歌い方、身ぶりからオーラがでている。つよい眼差しに、何者なんだろうと思う。

 覚えてる。ぼくが最初に買ったシングル・レコードはサイモンとガーファンクルの『ボクサー』。詞がとても好きだった。

2008年8月 5日 (火)

ソルジェニーツィン

 ソルジェニーツィン死す。昨日、夕刊を見ていたら、「ソルジェニーツィン氏死去」と載っていた。

 強い影響を受けた。『収容所群島』は決定的に重要な書だった。

 孤独だった80年代、ぼくを支えた数少ない柱のひとつだった。

 本棚に『収容所群島』、『煉獄のなかで』、『ガン病棟』、『仔牛が樫の木に角突いた』、『甦れ、わがロシアよ』といった本がみえる。

 ある時期まで手にはいる本は全部読んだと思う。

 1990年12月の発行となっている『甦れ、わがロシアよ』が買った最後かもしれない。距離を感じたのだと思う。

 それでもずっと気になっている人で、新聞にソルジェニーツィンの記事が載ると読んでいた。

 ロシアに帰ってからの発言にピンとこないこともあって、ぼくのなかでは過去となっているのだと思う。しかし忘れることはできなかった。ぼくの人生は『収容所群島』を中心とするソルジェニーツィンの作品につよい影響を受けている。世界もそうだと思う。ソルジェニーツィンがソビエトという社会で、何が起きているかをあきらかにしたのだ。

2008年8月 3日 (日)

「サウスポイント」読みはじめる

 『哀しい予感』、『アルゼンチンババア』、『体は全部知っている』と読んできて、このよしもとばななのいちばん新しい小説『サウスポイント』で、散文修行よしもとばなな篇は一応区切りとなる。どうなるか。

 まず書店のカバーを取り、帯を外す、サンダルばきの足を撮っている装丁。中央公論新社刊。これは1500円+税を出して買ったんだ。ブック・オフではまだ売ってなかった。しっかり読もうじゃないか。

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